「風が、強いな」
西の空を仰ぎ見ながら、どこか重々しい声音で、リアラッハが呟いた。
特に誰かの相槌を期待しているふうではない。片手で愛馬のたてがみをそっと撫でているが、これもどうやら無意識のものらしい。
そんな主人のかたわらで、清流に首を差し伸べて水を飲んでいるのは、堂々たる体躯の黒馬である。艶やかな毛並みは陽を浴びて鈍く輝き、静かな居ずまいは威厳すら感じさせるほどだ。
あるいは嵐の前触れなのか、今日の風向きはくるくると矛先を変え続け、旅人を翻弄してやまない。しかし、びょうびょうと吹き渡る風の中、一人と一頭は、飄然と別世界にひたっていた。
時の流れから、さらりと解き放たれた――さながら一幅の絵のように。
だが、誰しもが、積極的に詩心を発揮したがるわけではない。
ひとときの静謐を、割って入った無愛想な声が、つけつけと破り捨てる。
「格好つけてる暇があるか。遅刻の言い訳にもなりゃしない」
悪態は、ほっそりと美しい、まばゆいばかりの白馬の鞍上から降ってきた。
声の主は、不機嫌そうに眉根を寄せて、鐙をぎゅっと踏み締めている。
――これまた輝くような金髪の美形である。
「わざわざ呼びつけておいて、俺に恥ずかしい思いをさせるなよな。まったく」
「手厳しいな、ペンドラゴン――」
そう言いながらリアラッハは、悪びれた様子もなく、ちょっと笑った。
「あえて相手を待たせ、不安を誘うという心理作戦だと言えば、どうだ？」
「出まかせは止めろ。いい年をして、調子のいい奴だ」
にべもない。
「やれやれ……」リアラッハは大袈裟に溜息をついた。
「お前と一緒だと、感傷にひたる間もないな。年寄りの特権だと思うんだが」
「都合のいい時だけ年上ぶるな……感傷？」
ペンドラゴンは目を見開き、まじまじと相手の顔を見詰めたまま固まってしまった。
「……そこまで本気で驚かれると、さすがに傷つくなぁ」
水を飲み終え、満足げに顔をすりよせてきた愛馬の瞳を覗き込みながら、リアラッハはぼやく。
「まあいい。小休止は終わり。気を取り直して、出発するか」
軽く片手を上げて合図すると、少し離れて休んでいた随行の兵士たちも、さっと立ち上がって騎乗の準備を整え始めた。
ディアス家の本城ウェラミウムより、西へ進んで何時間になるか。既に隣国コリタニーに深くわけ入っている。いくつもの勢力が牽制しあい、ここ数ヶ月、空白地帯となっている土地だ。数え上げれば、南は王家の本拠地ロンディウム。北はブランシェ家、北西にライル家、そして真西はスレテート家領が広がっている。誰しも、このような地に足を踏み入れ、気を抜いていられる訳はない。
ディアス家の当主本人となればなおのこと。――の筈だが、リアラッハは緊張感など、滅多に顔に出さない主義を貫いている。
高みから軽い咳払いが聞こえた。ショックが去ると、今度は好奇心が復活してきたらしい。細い眉をひそめつつ、ペンドラゴンが馬上から問いを投げかけてくる。
「感傷って、何の冗談だ？――野心家の生臭坊主に会うだけだろう？」
「定番的表現だな。もう少しひねれないのか？」
リアラッハは、困ったように軽く首をかしげた。
スレテート家の現当主ティリアンは、王冠戦争――イシュメリアを揺るがす内乱の始まった頃は、王国の祭祀を司る大司教という要職をつとめていた男である。
要職といっても、内乱前のイシュメリアは、必ずしも特別宗教色が強い国ではなかった。かつては世界を震撼させた魔法使いたちも姿を消して久しく、日々の生活に不可思議がまかりとおることなど黴の生えたお伽話となっていた。神と祭礼を尊びつつも、王権は常に信仰の上にあり、大司教という地位には、特に王家を軽んじさせるような要素などない筈であった。
しかし――。
封印から解き放たれた宝石魔術師たちを得て、内乱当初の反乱貴族たちが、これぞ神の意思であると胸を張ったのもつかの間。
彼らが互いを競争者と見なすようになるまで、さして時間はかからなかった。戦乱が長引くと共に、国王の力は目に見えて弱まりはしたものの、その間いくつもの弱小勢力が滅びては、また新しい反逆者が、新王候補の名乗りをあげた。
そうした「新しい」反逆者たちの、最初の一人がスレテート家ティリアンであったのだ。
同時に、最後までしぶとく生き残った一人でもあった。
元・大司教の独立は、王家も今ほど弱体化していなかった頃のことで、おおいに衆目を驚かせたが、どう立ち回ったか、彼はしっかり炎の宝石魔術師「フレイム」――滅びたコーラル家に仕えていた筈の――をも、配下に入れていたのだ。いや、王に先んじて宝石を手にした事こそが、独立のきっかけであったのかもしれない。
「だが、あれでも昔は、紅顔の美少年だったぞ。二十年ばかり前か――当然、私もだが」
「――え？」
軽口めいた反論は無視してやりたいところだが、ペンドラゴンは我慢しきれず、ついつい聞き返してしまった。
「初耳だ。旧友、だったのか？」
「多少の縁はあった。友人とまではいかないが」
「だが、あんた――子供の頃は、貴族社会とは縁が無かったとか言ってなかったか？」
「ああ。ようやく祖父に引き取られたばかりの頃だ。祖父が心配して、無理して王立学問所に入れてくれたんだが、そこで出会った。知っているか？ロンディウム近郊の古い修道院が前身で、教師の半分は聖職者だ」
「俺は、国許を離れる機会などなかったし……」
「ものごころついた頃には、国は乱れ始めていた、か」
わずかに翳の差したペンドラゴンの横顔を見ながら、リアラッハは軽く頷いて受け流した。
「残念だな。案外面白い所だったぞ」
「坊主ばっかりなのにか？」
「残りの半分は、武術や兵法を教える元軍人だ。要するに、貴族の子弟に望まれるものを何でも、ということだな」
「そんなもの、質の良い家庭教師に学ぶほうが、よく身につくだろうに」
「だが、家にこもっていれば望めない、他人とのつながりが出来る。そんなものが、社会に出てからものを言う時もあるのさ。それに、同世代の貴族の中にどんな才覚のある人間がいるか、どこの家の後継ぎはどの程度の器か。このへんは親のほうが知りたいのだろう。伝統ある筈の学問所は思いがけず自由な気風に満ちていて、細かい身分や家格にこだわる者には不評だったが、それでも、子供を送り込んでくる貴族は絶えなかった。――平和とともに、真っ先に失われてしまったが」
「ふうん」
「だから、今回お前を連れてきたのは、さぞや狭かろう見聞を、多少とも広めてやろうという思いやりだな。もう少し嬉しそうな顔をしろ」
にやっと笑ったリアラッハを、ペンドラゴンは、その手にはのるものかと言わんばかりに横目で睨んだ。
「そんなことより、相手が昔馴染みだからって、また妙な無欲ぶりっこをするなよ。俺はそれが一番心配なんだ。せっかく一気に勢力圏を広げたところなのに、全く、やる気が有るんだか無いんだか……」
ぶつぶつとこぼす相手を尻目に、リアラッハは軽くくすりと笑うと、再び悠然と西の空を見上げる。
「本音を言うと、ただ、あの男に会って、もう一度人物を確かめてみたい気がするだけだ。スレテート家と手を組んで、今すぐ大きいメリットがあるわけじゃない」
「その点は同感だな。既に、後発の俺たちのほうが大所帯だ」
「人は、変わるもんだ。だが――」
あとの言葉を飲み込むと、リアラッハは愛馬の腹に軽く拍車を入れる。
馬のほうも、それを待ち受けていたかのような勢いで、大地を蹴って全速力で走り出した。
――この草原の向こうで、あいつも、あの頃のことを思い返しているのだろうか――
猛然とダッシュをかけたペンドラゴンと騎兵たちが後を追う。
どこかほろ酸っぱい、懐旧の思いは、あっと言う間に風塵に紛れて消えてしまった。
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