静寂。
そして、一面の銀世界。
見渡す限りの白一色の中に、ぽつりぽつりと、一組の足跡が伸びている。それはまるで、たよりなく、懐かしい、ひとすじの道のようだ。
深くくぼんだ足跡に、ペンドラゴンはそっと、自分の足を合わせてみた。 ……半分にも満たない。大きな、皮のブーツを履いているというのに。積もった雪の足ざわりは面白い。この足跡も、とても、面白い。
――珍しく、今夜は、夢の中にいるという自覚があった。なるほど、自分は、子供になっているな、と、ペンドラゴンは思う。イシュメリア北部は豪雪地帯として有名だ。だが、実際には、そこで育ったわけではない。やはり夢、実人生とはズレがある。
が、皮肉に考える余裕と知識は、幼いペンドラゴンの内面には重ならず、ふうわりと、冷たい大気のどこかを漂っている。
一歩、また一歩。子供のペンドラゴンは、見付けた足跡に、ぴたりぴたりと足を入れながら前進してゆく。大人の歩幅に合わせる事は難しい。下を向いて、汗がにじむほどに集中し、足を動かすうち、ふいと頭上に影が差した。顔を上げると、意外に早く、足跡の終点に達したのだとわかった。
足跡の主は、突っ立ったままペンドラゴンを見下ろしている。雲をつくような大男に感じたが、子供の視点のせいだろう。逆光で顔はよく見えないが、その口から出た言葉は、存外に優しい響きを帯びていた。
「何処へ行きたかったんだね？」
幼いペンドラゴンはぽかんと口を開けた。……それから、あらためて、痛いほど眩しい、白い絨毯を見はるかす。雪原の彼方には何も見えないが、そっと上げられた小さな指は、はるか前方を差していた。
――誰だろうか。ペンドラゴンは胸苦しい思いで、存在しない筈の両手をもみしだく。だが、思い出せない。あの声。どこかで聞いたことがあるような、ないような……
「やめて！」
誰かが、叫んだ。切羽詰まった、金切り声で。
ざらついた女の声が、ペンドラゴンの回想を吹き飛ばす。
「その子をどうするの！手を触れないで！」
金髪の、若い女だった。髪を振り乱し、雪の上を、転がるように走ってくる。幼い姿のペンドラゴンに相応しく、まだ若く美しかった頃の姿をしている……母だ。
その手には、――銀色に光る、華奢な短剣。
男は無言のまま、じっとそれを見ている。幼いペンドラゴンが、隠れるように、男の後ろに回るのを見ると、母はますます狂乱の度合いを増して叫び始めた。
「その子を離して！要らないでしょう！？それはね、――なのよ、……」
次第に強まる風に吹き消された、その言葉は。
幼いペンドラゴンは凍り付く。恐怖と涙がじんわりと、その目に浮かぶ。
「要らないわよね。だって」
何故か、勝ち誇ったような母の声。その白い顔に張りついた、歪んだ笑みが膨れ上がり、子供の胸を冷たいもので押しつぶす。
いつの間にか。
責められているのは、自分、なのだと……。
これは夢だ。放たれなかった言葉、有り得なかった風景。だが……声も立てずに泣き始めたのは、子供の方なのか。それとも――
「その子は、――だ、から。……」
……お・ん・な、の、こ、……だ、から。
.
苦しい夢が去っても、ペンドラゴンは、しばらく横になったまま動かなかった。
ブランカスタ城の高い天井を見上げながら、母と、ろくに記憶にない父とに、思いを馳せる。夢の中の男は、父だっのだろうか？いや、違う。あんな、優しい声を、聞いたことがある訳がない……。
王に任されたこの領地――ブランカスタは、王都のすぐ東に位置する。その北隣は、リンドウム。緑豊かなリンドウムは、父と母が出会った場所でもあった。
.
リンドウム侯。それが、かつて父の与えられていた称号だった。広大な領地を統べる大貴族として、最高位の武官として、精力的に働き、領民の信頼も篤かった。ただ、こと女性関係となると、はた迷惑極まりない、浅慮の情熱家であったらしい。
――二人目の妻と二人目の息子を得て間もなく、流行り病で急死した家臣の葬儀に顔を出した彼は、金髪の未亡人に一目で心を奪われた。蒼ざめ、黒一色の沈んだ装いにもかかわらず、病身の奥方に倦んだ当主には、彼女はまさに、光り輝くばかりの美しさと見えたのだ。もともと、弱々しく儚げな女性こそが彼の好みだった。
が、この、一見壊れやすいガラス細工のような美女は、炎のような激しさとプライドを秘めていた。主君である彼に対しても、簡単には心を許さなかったが、ひとたび結ばれたとなると逆に、強烈な独占欲をも発揮して、激情のままに彼を責めたてた。それは彼にとって、今までにない新鮮な魅力でもあったのだが……。
不幸な奥方が早逝し、二人にとっての最大の障壁が消えた、その時になって、事件は起こった。
何が引き金であったのか。おそらくは些細な痴話喧嘩から、彼女は、彼の懐を飛び出して、ひとり嵐の中へと消えた。――すでに、彼の子供を身ごもっていたというのに。
暴風雨は幾日も続き、何十年に一度という大規模な風水害が、リンドウムを席捲した。消えた女の生死すら、確認できずじまいであった。もともと、彼女は、ブランシェ家付きの外務官であった前夫に、どこか遠い土地から連れて来られた異邦人であったから、余計に捜索は困難を極めた。
しかも――それどころではない時代が、目の前まで来ていた。この嵐は、イシュメリア全土に吹き荒れる、暴政と荒廃の序曲に過ぎなかったのだ。
……何年もの空白ののち、奇跡は起こる。ただし、衝動的で奔放なロマンスは、歪んだ道化芝居へと変質していた。
死んだと思われていた彼女が、突然、小さな子供を連れて、リンドウムへと舞い戻ってきたのだ。やつれてはいたが、その瞳に宿る炎は、以前にも増して激しく狂おしく燃えさかっていた。この数年間、彼女がどこでどうしていたのか、今何を考えているのか――誰ひとり、それを知る事はなかった。
一方、かつてはロマンティックな放蕩者であった当主は、近年、数ヶ月ばかり、投獄の憂き目に遭って以来、甚だしく健康を害して臥せっていた。実のところは、ブランシェ家の豊かな資産を狙った、王の差し金であった。言い掛かり同然の罪状により、莫大な額の『罰金』が支払われたが、さらに近い将来――数年後には、ブランシェ家に対し、あらためて、領地没収、北辺の荒地への転封が命じられることになる。
それでも、何時の間にやら当主の館に、母親の違う弟が、さらに増えていたのは笑止であったが――。
以来。
ペンドラゴンの母親は、当主と同じ屋根の下に住むことは頑として拒否したが、我が子――ブランシェの三番目の「息子」には、当主の座を目指して鍛練するように強いた。長男のカルは勿論、次男エランも、子供の頃は母親の血か、それほど丈夫な方ではなかったので、勝ち目はそこそこ有るように見えた。……あまりにも大きな虚偽を、隠し通せさえするならば。
――嵐の後、彼女が産み落した子供は、女の子だったのだ。
ペンドラゴンは、またひとつ、溜息をついた。
こんな強引なイカサマが、よく今まで続けられたものだ――
.
……母は、「息子」を必要としていた。それを、いつもいつも、負い目に感じずにはおれなかった自分が不甲斐なく、また口惜しい。母の頭を占めていたのは、異腹の息子達――とその母親たちへの憎悪だけで、ブランシェ家の権威でも、我が子の父でもないように見えた。我が子――自分ですらないのでは、という不安は、ペンドラゴンは、力づくで押し潰した。頭の中が真っ白になるまで、全身が綿のようにくたくたになるまで、能力を絞り切った。それだけで済む。
努力することは、嫌いではなかった。
どうして？と問うかわりに、全ての不安を、兄弟たち……実質的にはエランと、競うことだけにぶつけて生きてきたのだ。
そんな自分の、何もかもを、投げ捨ててきた筈なのに――
母が死んだ後もまだ、呪縛は、続いているのだろうか。せめて安らかな眠りをと望む事の、どこが贅沢だというのだ。
口をへの字に引き結ぶと、ペンドラゴンは、荒々しい動作で、その身を起こした。
控えめな、ノックの音が聞こえた。
――つまらない一日が、また始まる。
幸か不幸か、その予想は裏切られた。
この日ひそかに、一人の使者が、ブランカスタ城を訪れたのである。.
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